昭和46年04月01日 月次祭 初代親先生誕生会
一日のお月次祭に引き続きまして、私の誕生をお祝いして下さる、プレゼント曲を聞かせて頂きながら、本当に有り難い事になっていくもんだと思うのでございます。お互いが、この世に生を受けるという事。ただ、この世に生を受けて、嬉しい事悲しい事。又は様々な問題に直面しながら一生を終わっていく時に、本当にこの世に生を受けておかげを頂いた事が、本当に意義あるもの、輝かしいもの、本当に有り難いものという事になってこなければ、この世に生を受けた値打ちがないとすら。
私は思うので御座います。ですから誕生というのは自分が生まれた日を自分が祝うというのではなくて、矢張り是は神様から祝うてもらう。神様が祝うて下さるというものでなからなければならない。お前の様な人間がこの世に出たので世の中が濁ったぞと。言われる人がどうして誕生祝いを受ける事が出来ますか。何のお役に立たない者が只長生きをしておるというだけで、それでめでたいと言う様な事はありません。
本当に神様がお喜び頂けれる日々であり、又はそれが一生であると言う所にです、信心の意味があります。私は思うのですけれども、今日という言わば良き日に誕生のおかげを頂いておったと言う事が、もうそれは勿論神様のお働きの中にある事で御座いますけれども、大変な深いものを感じずにはおられない事ばっかりでございます。昨日の月末のお礼をさせて頂いた。皆で信話会をここでお広前でさせて頂きます。
その時に親先生が私が昨日、たまたま親鸞上人様のお話をさせて頂いて、私の話の中には親鸞上人様のお話がいたるところに出て参りますですね。というのは私があの小さい時から、私の母の里であります麦生にまいりますと、もうそれはもうそれはそれは大変な一向一視の爺と婆がおりまして、もうそれこそ大根の虫でも殺さない。というのに所謂まぁ親鸞上人様の教えに帰依した、年寄り達でございました。
私共が参りますと、仏壇の前に座らせられて、お礼を言わせられる。そして仏壇の引き出しから、あの親鸞上人様の絵説きを出しましてね。それに色々と話をしてくれる。そすともうこちらの方が、それを覚えてしまって参りますと、直ぐ仏壇の引き出しに、行ってそれをこんな厚い、今日たまたまその話をしとりましたら、末永さんが先生是でしょうと言うて持って来ました。そこにございます。
大正何年ぐらいに私が六つか七つ位の時分に、それは出来ておる本でございます。ご本山から頂いておるものであります。それを出してはその絵説きを聞くのが楽しい。爺いもそれを話てくれるのが楽しいというようなです、その所謂薫陶を受けておる。総一ちゃん、人から、くらせられたっちゃ腹を立てちゃ出来ん。怪我させちゃ出来んぞちから、爺は私に言いよりました。
本当にその、一つぐらいくらせられてもね、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ち 言いよるとね。腹ん立つとはようなるち。私はそれを一遍体験した事がありまして、それはもう大変寒い、元旦の式がありました。草野の小学校で廊下に、講堂にに入る前にざっと並んでおりましたらね、私はもう小学校の時にはもう、とにかく冬中は休まんならんほどに酷い霜焼けでした。
足も手もいっぱい霜焼けしました。その足の霜焼けしておるところに、向こうから走って来た友達がね、いやというほど踏んだんです。こらち言うちから叩こうと思うた時にですね、爺が言うておった事がひらめいたんです、私の頭の中に。そしてもうただ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏いうたら、そしたら訳のわからん涙が流れた事を覚えております。親鸞上人様の教えを頂いて、そういう例えば、人間の生き方。
一つぐらい叩かれても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といよると、腹は立たんと言うておる。そういう爺の生き方というものがです、私共大人へ孫達の上にまで、そうした教えが行き届いておったという事をほんに有り難いと、私は思わせて頂きます。そういう例えば、爺の祈りというものがです、昨夜ばかりは又今日にかけてそれにかけてから思わせて頂くのでございますけれども、そういう深い深い爺の祈りがね、やはり上人様親鸞上人様のご誕生と同じ日に私が、生誕のおかげを頂いておるんだと。
それで私が何時も申します。私は桂松平先生の生まれ替わりとしての、自負です自覚です。いわゆるもう本当に金光大神の願いと、いうならば真宗仏教の師匠、始祖であるところの、親鸞上人様の、そういう例えば爺の祈りがです、祈りに祈られる中に、その様な不思議な働きを起こす。昨日たまたま若先生があるお書物を読ませて頂いておったら、その事が詳しく出ておった。親先生の誕生と同じだなという訳です、それ聞かせて頂いてそのようにまぁ思わせて頂いたのでございます。
今日私今日でした久留米から中川さんとい、中川建材のご主人女ご主人がお参り、お導きをした方。導いて参りられましてから、しばらく私の話を聞いて帰って下さった。又あちらの話を聞かせて頂いておるうちにです、私は驚きましたですね、私は七十八になります。それがまぁどんなに見ても六十ぐらいにしか見えない。先日も七十八というお婆さんが、あの見えられましたあの亀井さんの選挙の事です。
その時にもまたその方を見てから驚いてですね、若いなぁと思ったですけれども、それはもうそれこそ黒々と頭を染めて、眉を書いてそれこそ衿化粧までして、それこそもう若い着物を着ておられるのですよ。だからあらあなたも二十ぐらい若いというてから、じっと見よったら、やっぱり八十の婆さんだなぁと私は思うた。だからこしらえてじゃない。もうあのその中川さんは全然お化粧一つせん。
着物も地味な、やっぱりその婆さんの着られるような着物を着ておられるのにも関わるです、六十ぐらいにしか見えない。月に一回ずつそれが東京出張いたします商用で。もう家にじっとしとる暇はありません、と言うてその話し聞かせて頂きよる内すね、私は本当にこう元気が出てまいりましたですね。是は一つおかげを頂いて、この頃からまぁ言う事は言いよる。私も一つどうでももう一遍若返らせて貰わにゃならん。
そしてお役に立たせてもらわなければならん。一年でもお役に立ちたいという願いがです、これからひとつ十年とってという事にしよう。私は今日を持ちまして五十七回の誕生を迎えさせて頂いております。ですから四十七歳。十年(とうねん)とるですからね、十年(じゅうねん)とる。当年とって四十七歳と。これはしかしどうでも空威張りですもんね。私は当年とって四十七歳だというのじゃなくて、もう一年ずつでも良いから若くなっていこう。そるけんもう十年という事はいらん。
お誕生たんべんに一つずつ若返って行くくらいな内容を頂こう。私は本当にそれを思いましたですね。そしていわばもう私は糖尿病と言う事を申しましたら、是は恐らく日本中で私だけしか知るまいと思う、糖尿病の薬を私は持っとります。だから先生あなたが本当に飲んで下さるなら、私この次持ってきますち。何処何処の大臣にも上げました。何処何処の県知事さんにも上げましたと言われる。けどもこちらの先生が、本当に薬を飲んでいただく、その薬を飲んで頂くならこの次持って来てきますと言われる。
私はお水を沢山飲むもんですから、その感づかれたらしいんですね。例えばほんならお薬を飲んででも若返るお薬があるなら一つ若返らせて頂こうと。そしてしきりに勿論薬やら所謂、若返り薬ども飲んで若返ったんは、いけないのですからどうあらして頂いたら良いだろうかという事をしきりに思わせて頂く。それをそう言う事で一年でも長生きをしたいと言う事はです、一年でも長くお役に立ちたいという願いなのであります。
それから私お広前に出てまいりまして、丁度伊万里の竹内先生がお参りになっておられます。それからあそこに七八人おまいり、あの私裏の方におりましたから、会いたいと言われるから出てまいりまして、そん時にここで奉仕しよる所へ来ましたら、久富先生が言われる事なんです。親先生もう今日は朝からずっと、もうお神酒ばっかりお供えが来よります。親先生の所謂お誕生おめでとうございます、お誕生おめでとう御座いますというのが、お神酒ばっかりなんです。
しかもそれはもう今までかつて頂いた事のない様な面白い面白いじゃない、まぁ縁起のよいち言う訳ですかね。例えばあの(縁年)というですねお酒が参っとります。(そうか)と言う様なもう今まで頂いた事のない大阪、しかもこれは東京と言った様な所から、そういうお酒をお誕生祝いに頂いておる。同時にまぁ様々な私の方から、月始めに皆さんここの先生に頂きますますようなのが、今日はどんどん集まってくる。
だから久富先生が言わることにです、先生今日はどうでも一つ、お酒でお風呂を湧かし、お酒を浴びなさったらどうですかと。勿論冗談ですけれども、そんな事を言われた時に、私ははぁ私がね、どうして若返らせて頂こうか、どういう風にして長生きを、一年でもさせて頂こうか。どうして一年でもお役に立たせて頂く私になろうかと、思わせて頂いておったことはこれだと思うた。
私の心に愈々有り難き勿体無き恐れ多きという、とにかく我とわが心を拝みたいほどしの心が心に、愈々成長する事以外にはないのだ。それだけでもね、その有り難いものが、ここに御神縁を頂いて、お参りをしてくる方達の上にです。それがおかげともなって現われてくる。その有り難い勿体ないの皆さん達がです、おかげを頂いてない命が助かりました。おかげを頂いてこの様な難しい問題で解決のおかげを頂きました。
家庭の上にもこの様な有り難い、円満なおかおげを頂いてりますという、皆さんの、隋喜の涙を流されんばかりのね、喜びをね私はあげんことだと思うた。だから皆さんどうで助かって貰わなければならん。どうでも有り難き勿体無き、恐れ多きの信心になって頂かなければならない。勿論それは私自身がですよりもっともっと、有り難くならなければならないことは、もちろんであります。
その私のいわば有り難き勿体無き、恐れ多きが、皆さんに移って行く。私は昨日親鸞上人様のことを、ある方が書いておるお書物の中に、まぁ上人様が人に尋ねられた時に、ご返事をなさっという訳でもなかろう、何とかたいと言う中に書いてあるんじゃかろうかと、まぁ私は思うんです。また意味も分からん上人様の大変深い深い、そのお心を言葉に現しておられるのですから、それは意味は本当に分からないけれどもです。
良き人の言われることを頂いて、それを信じて行く他にです委細はなし。と言うておられます。よき人というのは、上人様の、いわば、場合は、師匠法然のことであろうと思います。法然上人様がです、あのようにおかげを受けておられる。その法然上人様が仰られる事をです。ただそれを信じて聞く以外にはない、それを信じて行ずるほかにはない。他に、秘訣はない。他に委細はないと言うておられる。
ですからもし私にです、ほんならこの様なおかげを、親先生どうしたらあなたは受けなさったか。大坪さんあんたはえらいこの頃儲けでぇたごたるが、どうしてあげん儲でぇたかと、もし人が問うならばです、私はそう言うでしょう。他に秘訣はありません。教祖生神金光大神が示された。又はご自身が踏み行うていかれた道というものをです、教えに残しておる、その教えを只踏む以外にはないのだと。他に秘訣はありません。と私もそういう風に申すだろうとこう思いました。
愈々そこの所をめごもう、本気で頂かせて頂きます。今月の焦点がもう皆さんの手元に渡っておると思いますけれども、これは先月の半ばでしたか頂きましたみ教えを、皆さんに今月の焦点として、皆さんのところにお配りしてあると思います。楽という事は、大きな心になることだと。朝の御祈念に私は神様にお知らせを頂いた。楽という字。その下が木になっておる、この木が小さい小さい木を頂くんです。
お互いが信心をしてです、本当に人間わざでは出来ないところをです。神様のおかげで、それこそ夢にも思わないようなおかげを頂きたいという願いをです、誰しもが持っておることだろうとこう思うです。それは棚からぼた餅が落ちて来る様な願いをかけるという意味ではありません。信心を進めて愈々神様を無尽に、無限に下さることの出来れる働きと力を、目の当たりに皆さんが感じておられるのですから。
私達もそういうおかげを頂きたいと願うならばです、そういう大きなおかげを頂きたいと思うならばです、まず自分自身の木が大きゅうならなければならない。木が大きゅうならなければいけない。そして段々その木が、段々大きくなって行くところを頂きましてね、その私が頂くその、上のその白いこう糸偏がかかって、それとこう釣り合うたこう木を頂いてから楽という字を頂いた。
ですからやはり木は大きくなることなのです。楽になるということは。勿論心が楽になると言う事だけではありません。家庭が円満であれば楽でしょう。お金にも十分例えば出来んでも、出来れば心が楽でしょう。経済の上にも人間関係の上にも、健康の上にも全ての点に大きな楽のおかげを頂きたい。そんなら私共がいわば心が大きゅうなって行く稽古をさせて頂かなければならんという事は、これはもう当然の事なのです。
大きなおかげだけを願って心が小さかった、入れ物が小さかったんでは、大きなおかげの頂けれる筈がない。そこでここで日々ですどういう生き方にならせて頂いたら心が大きゅうなるかと言う事を、様々な角度から頂いておる訳であります。大きゅうなるだけじゃいかん。勿論限りなく美しゅうならにゃいかん。豊にならにゃいかんそう言うそこに焦点を置いてそれでは、一つ大きゅうなろう豊になろうというておるだけではいかん。そりゃまぁ一生懸命参っております、拝んでおりますというだけでもいかん。
今朝から朝の御祈念にあぁいう風に頂きましたことは、初めてでしたが「人の身が大事か、わが身が大事が、人もわが身もみな人」という御神訓がございます。その次には「天が下に他人と言う事はなき事ぞ」ともあります。「人の身が大事かわが身が大事が、人もわが身もみな人」である。皆さんどうでしょう。どっちが大事か。誰だってです誰だって、私自身が大事なのです、わが身が大事なのです。
それは親よりも子供よりも、やはり自分の方が本当は、ぎりぎりのところは大事なのです。そこでね教祖はそういう風に教えておられるが。そんならば「天が下に他人とはなきことぞ」と仰るのですから、天地の親神様から御覧になれば、やはり同胞であり、矢張り同胞(はらから)である。いうなれば天地の親神様から御覧になれば、黒かろうが白かろうが、それは兄弟なのである。天地という神様の地に繋がった兄弟なのである。そういう見方をしていかなければならん。
けれどもですそれよりも、矢張り自分の方が大事だと。けれどもここに自分が大事であるならば、自分が愛しいならばです自分を愛しみながら、自分を大事にしながら人にも、それを大事にすることの出来れる道はないものかと言うのが、私は今朝の御理解であったとこう思うのです。自分の心を大事にする。自分の心を愛しむ。例えば家の中でも、今日もある方が、お届けになっておられました。それこそ苦虫を噛み潰したようなのがおるなら、家の中に一人。
もうそこから逃げ出そうごとある、それが親じゃろうが、主人じゃろうが家内じゃろうが。それこそもうそのなんならばあげなとの、ぶっとしとかなんじゃろうかという事になってくる。というて何ならそげんぶっとしとかにゃんじゃろうかち言いよるもんまで、ぶっとしとる連鎖反応ですよ。あなたはちょいとね、例えば家内に私が時々いや今は言わんばってん、昔は言いよった。お前はどうしたらそげなぶっとした顔しとかんならんかち。ちゃんこっち方がぶっとしてからいよるとじゃん。
ですからもう本当に自分の心の中にですね、今日はだからそこん所の焦点をね「腹立てば心の鏡の曇る事」を教えられるが。自分の心に腹を立てては神様にお粗末になる、ご無礼になる。心を清めて行くと言う事。心を愈々大事にして行くと言う事。そこに腹を立てんで済む私にならせて頂く、何時もにこやかにしておる。私は自分の妹の事を言いよると本当に今日可笑しいですけども、今朝も皆さんにその事聞いて貰った。
中島さんが参っとられる、もう中島さんの話しでから、白ごつじゃなかろうと思う。先日あの共励会の時に、中島さんがそれを発表してます。あちらは今あのカゴメに勤めておられます。ところが同じその勤め仲間の山辺からくる人がある。その人が中島さんに向かって言われる。毎朝、ここばあの自転車で通りなさる人があるでしょうが。あの郵便局に勤めなさるお方。
もう今日は中島さん私はもう朝から夫婦喧嘩してから、もう腹ん立って腹ん立ってもやもやしてからもう、ぶうぶやって下って来よったら、池尻さんがねそこで会うた。もう何時もの事ですけれどもね、もう別に知ったのではないけれども、すれ違う時に、おはようございますと、にこやかに言われる。何時もただ、おはよう、おはようございますと返事を返しておったけれども、今日ばっかりは不思議なことじゃったち。
あの池尻その方にね、いわゆるそのおはようございますと言われたらね、もう心が今までモヤモヤ腹んたっとったつが、一編に消えた。そして、まぁ信心があるなら有り難いち言われたのでしょうけれどもです、何とも言えん心にならせて頂いたと言うて、その中島さんが話さっしゃる。だから中島さんが、そのことをです、その話しておられます。それから中島さんが、またそれに輪をかけたように、
はぁもうあの人は、仏様んごたる人ですけんでち言うちから、家の前の小母しゃまですよち言うて、話したという話しをしておられます。赤の他人の誰彼にでも、自分に接する全ての人がです。自分にかかわり合いのある全ての人がです。そのような事になって行くという事こそがです。「わが身が大事か、人の身が大事か、人もわが身もみな人」ということになるのじゃないでしょうか。
自分自身を大事にして、自分の心が有り難い。自分自身の心が、自分で拝みたいごたる心がある。そういう人がそこに一人ある時に、その周辺は、それこそ水澄ましのように澄んで行くのですよ。なるほど自分自身が大事なのだ。だから自分自身が大事にさせて頂いてです。自分で自分の心を拝みたいほどしに心を作って行くということ。それがその人に接する人、全ての人にです、良いものを与えるという事になる。
成程天が下に他人と言う事はなき、それは兄弟だ兄弟と同じだと頂いてもです、中々そうなら自分の身を犠牲にしてでもという訳にはまいりません。私は金光様の信心とはそういう信心じゃないと思う。自分を犠牲にしたり空しゅうしたりする事じゃないと思う。自分自身が助かる事なんだ。自分自身が有り難うなることなんだ。その有り難い心が家内にも子供にも親にもしかも自分に関わり合いのある全ての人に、
それを施そうとして施すのではない、それが当り前の事として出て行くという、私共は生活にならせて頂く時です。そこに人も助かるわれも助かる、と言う様な働きが起こってくるのだという風に思うのです。そういう意味においてです、愈々私は一年でも長生きをしたい。そして一年でも、世のお役に立たせて頂きたい。そんなら私は本気で若返らせて頂くところのおかげを頂かなければならない。
それに私がして愈々、私自身が有り難うなるだけではなくてです、これは皆さんここで助かって下さる皆さんがです、有り難うなっていく、久富先生のそれじゃないけれども、浴びるように、皆さんの喜びの声をここに聞かせて頂くというような、おかげを頂いていくならば、いよいよ若返っても行く事であろう。長生きのおかげも頂いて行くことであろうという風に、感じたのでございます。
どうぞ信心とは結局私自身が助かること。私自身が有り難うなる事。そこに愈々焦点をおいて、是からの信心の稽古に励んで頂きたいものと、私も励もうと思うのでございます。今日はお話がこう出来ませんでしたけれどもね。まぁどうぞ私が言おうとしておる所を、一つ皆さんが汲み取って下さって、今日のまぁいわばめでたくお祝いして下さった、お祝いのお返しのようなつもりでお話させて貰いました。有り難うございました。